2013年5月3日金曜日

まえがき

趣味で小説のようなものを書いています。
その二作目です。

大学に勤めているので、たくさん若い人たちとお話しをします。その人達が大学で生活した息遣いみたいなものを残したくて、この作品を作りました。

大学とお店は実在ですが、登場人物には特定のモデルはいません。
書き手としてはシロートですから、優しい気持ちで読んでください。

2013年5月3日 作者

☆ 各章の最後に次の章へのリンクを付けました。それをクリックすると続きを読めます。

http://horeame.blogspot.jp/2013/05/1_3.html
から始まります。

1章


獣医学部の卒業記念パーティーは新さっぽろのホテルで催される。

「まだ鏡を見てるよ」萩尾智穂は心の中で舌打ちした。

卒業記念パーティーでは女子トイレの鏡がもっとも華やかな顔を見ることになる。自信に満ちた女子学生が大学最後の思い出を作る顔を念入りにチェックする。智穂は、自分の顔にウットリしている人間を見るのが嫌いだ。5年生は卒業記念パーティーのあとの二次会のためにロビーに控えている。二次会に先輩たちを連れて行く前に智穂がトイレに入ってから出るまで、同じ2人が鏡に向かっていた。きっと眉毛の一本一本、髪の末端まで確認しているに違いない。

「私、西村君には細身のスーツが絶対合うからって言ってたんだよね」
「彼神奈川県に入ったと思ったら、最初鎌倉保健所なんだって、ついてるよねー。私も川崎の動物病院だから、これからいろいろあるかも。」
「そうなんだって!!なんかいろいろな意味で今日が勝負よね」

智穂は、手を洗いながら自分がすこし笑っているのに気がついた。西村先輩からの手紙は智穂の鞄の中にある。

**
西村先輩と智穂は良いチームだった。智穂が4年の後半のときに研究室内でテーマが決まり、1年間西村を手伝って動物の寿命に関わる遺伝子を探した。智穂は寿命遺伝子という新しい言葉が何か運んでくれるような気がして、ゼミとテーマを決めた。そのテーマの担当が西村だった。西村は、長身で姿勢の良い背筋と目元の涼しげなところが良く一致しており、同姓にも異姓にも好感を持たれた。特に女子学生については、同級生にもファンが居るほどで、本館から離れている研究室には、国家試験の勉強が盛んな12月から2月までの間、6年生の女子学生が試験勉強と称して集まっていた。ただ、智穂は西村の端正な顔立ちには興味が無かった。容姿と魅力では自分の父親にかなう男など居ないと確信している。ただ、未知への探索をするパートナーとして西村は好感が持てた。一緒に読みづらい英語の研究論文を読んで、その向こうにある新発見が、自分たちの実験机の上にあるかもしれないと語ってどのサンプルをもらって何を探しだすか、コーヒーを飲みながら議論しだすと、本当に楽しかった。

智穂の1年間は、講義室と実験室での時間が占めていた。智穂と西村は生物自身が生み出す活性酸素から体を守る遺伝子を探した。西村の研究が終わる10月には、重大なヒントになりそうな遺伝子の断片が見つかった。11月からは、智穂と4年生の喜代田さんで、続きを探していた。

遺伝子は、DNAという物質でできていて、それを調べるためにはDNAの中の一部の領域を2倍にする作業を繰り返す必用があった。人工的に作った短いプライマーと呼ばれるDNAと動物のDNAを一本の小さなチューブに入れて100℃近くと60℃を繰り返すと目的の領域だけを取り出すことができた。プライマーは自由にデザインして注文できるので、理論的にはプライマーさえ正しくデザインできれば、遺伝子の謎を調べることが出来るはずだった。ただ、プライマーは4種類の塩基を20個連らねるため、その組み合わせは1兆通りもある。研究者は、過去の膨大なデータを元に1兆通りの中から、謎を解く20文字を選び出そうとする。西村と智穂は、鳥の長寿の元になる遺伝子に注目してプライマーを探した。うまく見つけられたときには、遺伝子をアガロースという特殊な寒天の上で見ることができた。動物が何億年も進化した秘密が、バンドと呼ばれる長細いオレンジ色の四角として現れるのを期待して、研究者は知恵を絞ってプライマーをデザインする。

智穂は、西村と一緒にバンドを見るのが好きだった。10回中9回は何も見えなかったが、残り一回にはまるでご褒美のように美しいバンドが見えた。智穂は同級生が言う西村の端正な顔には興味が無かったが、一緒にアガロースを見るときの西村の表情は好きだった。実験が成功した時には、小さなお祝いと言って二人でひとつずつ飴を舐めた。飴はもともと智穂の趣味だったが、次第に西村も飴の種類を覚え、札幌の店で買ってくるようになった。10回試してもうまくいかないときには、西村の習慣に合わせた。JRの電車の最前部に乗り、運転手の後ろから風景が動いていくのを見に行った。西村は、鉄道ファンというわけではなかったが、列車からの風景は良く覚えており、出身地の私鉄の終着前のビルの移り変わりを話すのが好きだった。智穂は、JRで大麻駅から札幌駅について、ふたりでついでに行くスターバックスの方が好きだった。9月は最悪で、ずっと実験が上手く行かず、とうとうJR用のKitacaを買ってしまった。

西村と智穂が使った実験室では、窓から大きな森が見えた。森の奥には、いつも小さな変化がある。春には痩せたキツネが窓のすぐ外まで餌を探しに来ることがあった。西村と智穂は息をひそめてキツネの様子を見ていた。イヌ属の敏感な鼻は、生きるために餌のヒントを探していた。草むらの一箇所一箇所をさぐってネズミの痕跡を探している様子を、西村と智穂は、腰をかがめてキツネに気づかれないように眺めた。キツネは窓から1メートルのところまで近づいて探索を続けていた。息を潜めながら、智穂は西村と同じキツネを見ているのが幸せだった。その時間は、西村を呼びに来た6年生の甲高い声で終わった。キツネは瞬間に身構えて、二人と目が合った。その直後にキツネは森の奥に消えたが、智穂には、キツネが智穂を非難するような表情をしたように見えた。智穂には、自分が母を非難するときの表情と似ていると思った。

西村から手紙を見つけたのは、3月12日だった。西村が自分の荷物を片付けた後、実験室の引き出しでそっと入れてあるのを見つけた。短い文章には、感謝の言葉と、夏休みに鎌倉で進行状況を打ち合わせることが提案されていた。智穂は2度読み返したあと、白衣のポケットに手紙をしまった。白衣と対照的に赤くほてった手を後輩に見られないか、気になり、実験室の窓を開けた。まだ雪が残る森では新芽が出ており、早春の香りがした。深呼吸をしたときに胸が震えた。
**

智穂は、髪の乱れを確認する最短の時間で鏡の前を離れた。自分の顔にウットリする人間も嫌いだが、母親とそっくりな自分の顔も嫌いだった。人間は顔じゃない。と、短く呼吸をしてロビーにもどった。

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2章


気がつくと、横に喜代田さんが立っていた。智穂は、他人にも自分にも優しい目線を向けられるこの後輩が羨ましかった。優しい気持ちをしっかりと持っている女性は、自分がカップルになった時に相手を幸せにできる自信を持っているに違いない。誰にでも特別な笑顔を見せられたが、交際している彼氏にはそれ以上の表情をしっかりと取っておいてあった。

「西村さんの隣の席を死守しましたから」

と喜代田さんが自信と優しさにあふれて話してくれているのに対して、智穂は笑顔では答えられなかった。智穂は、相手の目に曇りを探してしまう、きっと、その小さな曇りは表情全体にひろがってきっと自分を嫌いになると考え続けるに違いない-といつも確信を持っていた。

卒業記念パーティーの二次会は研究室の会で本来は人数が限られているはずだが、西村と話す時間はあまり取れそうにない。いつものように、「準教室員」と自称する6年生の女子学生も何人か来るだろう。でも、智穂には夏休みには特別な時間が待っている。その時に、話すことはゆっくり話せば良いのだ。新しくこれから見つける遺伝子やそれを見出す方法、それから、キツネのその後など、一杯話すことはある。その後の帰省では、久しぶりに大好きな父親に会えるはずだ。川床での父親との食事は、夏の京都の賑わい以上にたのしみだった。

そろそろ、華やかなパーティーから先輩たちが出てきていた。長い学生生活を頑張り通して、卒業と資格という2つのご褒美を手にしている晴れやかな顔の先輩たちは、どの顔も素敵だった。


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3章


智穂が、西村とメールアドレスを交換していなかったことに気がついたのは、研究室で西村を見送った後だった。住所は、何かの資料を送るときのためにもらっていたので、手紙を出した。それから、毎日返事を待つようになった。4月の2週目には返事が来た時に便箋を傷つけないように開封する方法を考えて、ハサミを買った。毎日、西村と交わした実験メモを見ながら、西村が便箋に書いてくる字を想像した。

ゴールデンウィークの最初の日に、西村からの手紙が来た。郵便受けから封筒を胸に当てて部屋までの階段を登った。こざっぱりしたアパートの部屋は、まだストーブがなければ寒かったが、智穂は薄いカーディガンを脱がず、そのまま机に向かい、蛍光灯に透かしながら、ハサミで便箋の口を切った。便箋には、想像していたよりは少し丁寧な字で便りが書かれていた。

*****************
萩尾さん。その後実験はいかがですか。僕は、鎌倉の担当になりました。大概の仕事は保健所の中ですが、先輩が食中毒の予防を覚えるためと言って管轄地域に連れ出してくれます。由比ヶ浜銀座は最も好きな場所です。海岸が近く、塩の香りがわずかにする静かな町並みです。管轄地域の見学中に、萩尾さんをご招待できる場所をそっと探しました。少し丘の上にある歐林洞というお店です。鎌倉は、静かなのに自信があふれている感じがします。住んでいる人たちにとって、世界一の場所であることは当たり前と思っていながら、何も自慢しません。本当に、萩尾さんに紹介したくて夏が待ち遠しいです。
では、お元気で、時期が近づいたら、今度はメールします。
すみませんが、メールアドレスを書いて置きますので、そこにメールください。
考えてみたら、実験で一緒だったので、メールアドレスを知りませんでした。メールしてくれれば、確実に返信できます。短い一言で結構です。
西村
*********************

智穂は、3回ゆっくりと読み返した。声に出さずに読むと、西村の声が聞こえるような気がした。4回目には、飴を舐めながら読んだ。飴を含んだ口ですこしだけ発音すると、西村の声のようだった。

その後、由比ヶ浜銀座という通りを知るために、インターネットで地図を調べた。それでも落ち着かなかったので、大通りに出かけて地図を買った。4万分の1の地図からは、海岸線からの緩やかな等高線と人家が並ぶ通りを読み取ることができた。その日の残りは返事の最初の一言を考えるだけで過ぎた。

翌日、父からの手紙が来た。めったに手紙をくれない父からの封筒も昨日と同じように、便箋をハサミで切って開けた。見慣れた字で書かれていたのは、母の癌についてだった。すでに転移をしていることを母は知っており、手術を拒んでいるとのことだった。夏までは、学業と就職活動に頑張るように、母が強く言っているとのことだった。それでも、夏休みはできるだけ実家で過ごして欲しいとの父の希望が書いてあった。

智穂は母が嫌いだった。なにか話そうとすると、母はいつも先回りをして話を遮った。それが当たっているたび、母の細く見える目が自分の皮膚を切っているように思えた。母は、おおきな薬局を経営し、その跡を継ぐことを当然の義務として智穂に接していた。獣医になりたいと告げた時には、目線を一瞬だけ合わせて「どうせ」とだけ話した。

「どうせ、続かないとでも言うなら、獣医として成功した私を見て残念がればいいじゃないの」
と、何度も心の中で叫んだが、いつも、母の前では言葉が出なかった。
薬局の中では、母はいつでも皇帝のようで、ひとりひとりの職員の勤務状況と弱みを把握し、逆らう可能性のある職員はいつの間にか退職していた。母は、職員にも、取引先にもそして智穂にも、常に同じ目線で接した。

高校入学の頃から、智穂は鏡に写る自分の表情が母と似てきていると思うようになった。別に怒っているわけではないのに、目線がきつい。無理に笑うと痛みをこらえているような顔になった。高校2年生のときに、自分の表情は小学校のころから、母の手伝いをしたせいだ、と考えた。それから、身繕いでもできるだけ鏡に向かう時間を短くするようにした。鏡に写っている自分の顔はますます母親に似ていくようだった。

母の人生の終わりが近づいていることは信じられなかった。看病に向かったとき、ベッドで寝ている母が弱音を吐くかもしれない、きっと自分にこれからどうしようと頼るのではないかと想像した。そう、考える自分がとても嫌で、父からの手紙が着いた日は休みであるのにもかかわらず大学に出かけた。まだ雪解けのあとで埃っぽい道を歩くことで気が紛れた。放牧されている牛を見ると少し気持ちが柔らかくなった。

その日の翌日には、夏を看病で過ごす決心がついた。

智穂は教授に7月までに卒業論文を仕上げることの許可を得た。夏までは自分が研究に関係する総仕上げなる。その後は、9月末まで可能な期間全てを看病に充てることにした。

5月と6月には西村とメールを交わした。西村のメールは、智穂を励ましてくれた。8月のはじめには、京都に戻る途中に、鎌倉に立ち寄ることになった。智穂は、9月末までの看病の前の小さなご褒美と自分に言い聞かせた。

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4章


卒業論文は58ページだった。最後のページを打ち出してファイルに綴じた。喜代田さんは実験と卒業論文のまとめにずっと付き合ってくれた。卒業パーティー以来、喜代田さんは西村の話題を出さなかった。ただ、その日、智穂が帰宅するときに研究室の玄関で、
「行ってらっしゃい、応援しています」
と送り出してくれたときの表情は、全てを知っていて受け止めてくれているようだった。きっと喜代田さんとなら親友になれる、と思った。

智穂は、8月1日の早朝便で羽田に着いた。帰りの予定が決まらないので、片道便にして、鎌倉に立ち寄り、それからは新幹線で京都に向かうことにした。「一日だけは自分のために使う」と智穂は自分で決めていた。


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5章


8時に新千歳空港を出て、藤沢に着いた時には、11時半を過ぎていた。何度か鎌倉を調べたときに、江ノ島電鉄が出てきた。智穂はこの電車で鎌倉に向かうことにしていた。手紙にあった由比ヶ浜も通る。西村は、その日の午後有給休暇を取って智穂を案内してくれることになっていた。

市電のような江ノ島電鉄の電車は、街中を抜けたあと海沿いに出た。海岸は夏休みで、その手前に見える道路はどこも混雑していたが、反対側の街並みは静かだった。ビルはほとんどなく、普通の住宅が続いていた。小さな駅から乗り込む人は半そでシャツの地元の人と小学生が多かった。鎌倉駅が近づくにしたがって社内は混雑し始めたが、由比ヶ浜駅では気分が高揚した。西村の手紙にあった商店街は、隣の和田塚駅の山側にあった。

西村との待ち合わせは、江ノ電鎌倉駅の改札口だった。洋風の木造で建てられた駅舎は苗穂駅と似ていた。10分待ったころに西村は江ノ島電鉄から降りてやってきた。卒業までいつも見ていた雰囲気がそのままだった。ホームからよほど急いだらしく、肩で息を切らしていた。「待った?」という一言を聞いただけで、智穂は涙腺が少し緩んでいるのが感じた。ごまかすように目をこすって「ちょっと花粉症かも」と言って歩き出した。再会用に考えた何十という素敵な一言は、使えなかった。

まず鶴岡八幡宮に詣でてから西村の選んだお店に行くことにした。参道は人ごみだったが、本社がちかづくと、やや静かになった。お祈りのときには、西村が一緒に母の全快を祈ってくれた。西村には、母は病気とだけ伝えていた。

鶴岡八幡宮を出てから海と反対側に歩いた。緩やかな上り坂を歩いた後、右側に歐林洞という石造りのお店に着いた。古い作りだが、冷房がよくきいていて、最初のお冷は本当においしかった。西村は、メニューを見ながら、前もって決めていたキッシュを頼んだ。地元情報を得ていると言って、紅茶を添えた。キッシュを食べ終わったころには、西村が卒業する前の雰囲気が戻ってきた。次に分析すべて遺伝子や、喜代田さんがなんとなく探した遺伝子がすごい情報を持っていたかをずっと話した。新しい遺伝子と鳥類の進化に関係する話になったところで、そのお店でしか食べられないというパトロンというデザートをコーヒーと一緒に頼んでくれた。ショコラ・ノアとショコラ・オ・レの二種類を頼み、智穂の前にはショコラ・ノアが運ばれた。西村は、智穂が一口試すまで、ショコラ・オ・レにスプーンを付けず、待っていてくれた。

窓から日が差し込むようになったところで、店を出た。

9時には京都駅に着くことを父に伝えていたので、智穂は新横浜駅に向かうことになっていた。西村のそばに長くいてもっと話したいという気持ちよりも、自分の理由だけで長く引き止めたら西村が却って遠くなるというおそれが勝っていた。

偶然新横浜に用事があると言って、西村も新横浜まで一緒だった。智穂は、もっと遅い新幹線にすべきだったという気持ちと、会っている時間を短くする必要性のことばかり考えて、会話が続かなかった。新横浜では新幹線のホームへの入口でわかれるつもりだったが、西村は新幹線ホームの売店でしか売っていない記念品を友達に頼まれたからと言ってホームに一緒に入り、広島行ののぞみに乗る智穂をホームで見送ってくれた。

智穂は、できるだけ自然な笑顔で西村を見送った。もし、素直に気持ちを伝えることができれば、もっと一緒にいられるのに、と考えると自分が情けなかった。発車してから涙があふれてきた。

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6章


京都駅には、父が迎えに来ていた。何時会っても魅力的だった。何故この父が母を愛したのか、まったくわからなかった。母は、少なくとも智穂が見ているときには、父に笑顔を見せなかった。京都駅の近くに駐車してあった車で実家に向かった。すでに薬局は閉店していたが、店長の佐々木さんはまだ品物のチェックをしていた。母の帰りを待つ間、しっかりと運営したいとのことだった。上の階に行くエレベーターで5階の自分の部屋に入ると、前回来たときと同じように、部屋が整えられていた。母は、智穂の部屋はそのままにしてくれていた。

窓からは、暗い風景の中に高野川が見えた。数百メートル先で賀茂川と合流することを知らない流れを、智穂はずっと好きだった。

一休みしてから、下の階におりると父が待っていてくれた。母の容態と翌日の見舞い時間を確認した。痛みが激しいはずだが、母が服用を希望した薬剤が適格なのか、痛みに苦しんではいないとのことだった。父が暗い顔をしていたので、智穂は卒業論文を早く提出したので9月までいられることと、明日から看病にあたることを短く伝えた。研究のことや大学でのことは、父が尋ねることについてだけ返答した。

病院に着いた時、母は、食事を終えたところだった。皿のひとつひとつの確認をしてからカロリーを計算しているようだった。到着した智穂には、200カロリー、最適よりもオーバーしてるわね、と話した。智穂は、好きでもないその話し方に少しほっとした。

それから毎日2度、母が薬を飲むときには、薬品のカプセルシートにある番号から製薬会社と薬品名を確認して、その薬効機構を智穂に問いかけた。朝食時は、お見舞い時間外のため、看病の家族は同席できなかった。薬のことを自分に尋ねて答えるのを見ていることが、母にとっては楽なようだった。

痛みは母の体内に浸透しており、智穂の助けでベッドから起きるときには、痛みで顔をゆがめた。

看病の毎日は、まるで口頭試問だった。母が尋ねる薬の名前は、母が飲んでいる薬から、その類似薬、さらに前日尋ねた薬の類似薬へと広がった。特に、智穂が学んだはずの薬物の名前は覚えていて、薬品が働く機構や副作用を智穂に言わせた。少なくとも、そうやって知識をやり取りしている間、母は痛みを忘れられているようだった。智穂が正確に答えると、当然という表情の奥に満足な気持ちを見せた。智穂は必死で薬品の勉強をした。母も勉強するらしく、智穂に専門書を持ってこさせた。まるで、知識に鎮痛効果があるようだった。

相変わらず母は嫌いだったが、母の強い意志にもかかわらず、漏れ出てくる苦しみの表情は、薬のことを覚える以上に智穂にはつらかった。

看病を始めて3週間すぎたところで、母は、家から一つの品物を持ってくることを智穂に伝えた。専門書ではなく、箱であることがいつもとちがっていた。それ以外、そっけなく伝え、復唱させるところは、いつも通りだった。智穂は、何度も入った母の室内にある箱の詳細な位置と色や形を覚えた。

翌日、智穂が箱を病室に持っていくと、母はその箱から小さな薬を出した。薬局の包装用シーラーでビニールに封印した後、はさみで切り口がつけてあった。

母は昼食のあとでゆっくり語り始めた。

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私は姉と二人で、薬物の研究をしていた。薬は体の仕組みのうちの一つを選んでバランスを変える。薬ができることは、本のわずかなバランスの変化だけ。シーソーで上に上がっているこどもに手を添えて下ろすようなもの。うまく押すことができれば、全身の流れが変わる。
特に、精神に働く場合、微妙なバランスの的確な場所を動かすことができれば、精神の流れは変わる。それを姉と私は見つけた。それで、一つの薬を作った。その薬は、人の愛情に関する流れを変える。長く話し合ったのちに、姉はその薬を試した。効果は見事に表れた。

それで、二人で薬を、上質な糖分でコートして飴にした。その時に作った飴は4つ。それしか作ることは出来なかった。姉はそのうち2つを持ち、私が二つを持った。私は飴の一粒をあなたのお父さんに飲ませたの。どうしても、お父さんにそばにいてほしかった。私は、その気持ちを抑えることが出来なかった。これが残りの一粒。

あなたがこれをどうするかは任せるよ。私には、託す相手はあなたしかいない。世間に公表すると、研究と分析の結果、どうなるかわからない。だから、よく考えて、この一粒をあなたのために使ってほしい。
これが、あなたへの一番大切な、最後の贈りもの。
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智穂は、箱をトートバッグに入れ、京都大学の中を通って帰った。母に何度も連れて来られて、まるで、ここに学ぶことが最低の仕事のように刷り込まれたキャンパスは、6年前から智穂には立ち入れない場所だった。その日は、それなりに美しく落ち着いた道と知性的なヒトとすれ違う風景として受け入れることができた。

自宅に帰ってから、智穂は母から受け取った箱を机にしまい、夕食の準備を終えた父に尋ねた。

「どうしてお母さんのことをすきになったの」

父は答えた

「あの人は、私を好きでいてくれるから」

智穂は、とりあえず、薬を慎重にもう一度しまうことにした。


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7章


母は、9月に入ると、薬の調合を変えるように、医師に強く主張した。全身への転移の結果、脊椎の神経をがんが直接圧迫していることと、前頭部に転移の一部が近づいていることを主治医に訴え、意識を低下させる薬の処方を希望することを伝えた。MRIの検査結果で母の病状が証明されると、医師は処方箋にサインをした。

医師は、意識が低下する前に家族との時間を設けた。
母は、父の手を取っていくつか二人だけ聞こえる声で静かに話した。そのあと智穂の番が来た時には、母の痛みはひどいらしく、力が弱っている手で智穂の手首をつかんで話した。

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あの薬の詳しい仕組みはわからなかった。でも、副作用はなく、一旦始まった効果は持続する。あなたは、自分の思う方法であの薬をつかいなさい。私は、薬を使った自分をずっと罰して来た。あなたのお父さんに不幸があればすべて私のせい。でも、今あなたのお父さんは、私との人生を幸せと言ってくれた。だから、、、、、、
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残りは言葉にならなかった。母は自分の予想よりも早く、意識を保つ能力を失った。

母は9月の3週目に息を引き取った。母の薬の選択は最後まで的確で、母が予測した通りに、痛みはなく静かな表情を保ち、最後の夜も静かに眠っていた。 

父は、最後の3日間は、病室にとどまって母の手を握っていた。疲れ果てても愛情にあふれていた。智穂はその後ろで座っていた。

葬儀には、母の姉が来た。智穂が生まれる前に母とは疎遠になり、会うのはこれが初めてだった。伯母は、本葬の直前に現れたため、葬儀の間に話すことはなかった。

葬儀では父が喪主として別れの言葉を告げた。

***
ヒトは皆、ある思いと生きているのだと思います。妻は、何かのつぐないのために生き続けました。そのために、生真面目に薬と向かい合っていました。時に、その生真面目さが度を越しているために、何人もの方にご迷惑をお掛けしたかもしれません。ただ、妻は私だけには違う表情を見せてくれました。その表情は、二人だけの財産として封印させていただきたいと思いますが、今、妻には全ての思いもつぐないも、しっかりとやり終えて、安心するように、伝えたいと思います。
智慧さん静かに安心して眠ってください。私と娘はずっとあなたのそばにいます。
***

智穂に、幼い時の記憶が戻ってきた。母は厳しいだけではなかった。切ないくらい大切なものを扱うように自分を見つめてくれた。最後に話して、言葉が途切れた時の表情も同じだった。「ごめんなさい」と智穂は心の中で繰り返した。何故謝っているかはわからなかった。

葬儀が終わった時、伯母が自分の方を見ていることに気がついた。振り返った智穂を、伯母は10秒間黙って見つめた。

「まだね」

とだけ言って伯母は去った。話しかけようとする親族には何も答えず、黙って歩いて行った。親戚は、「若いころは違ったんだけどね」と言っていた。

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8章


11月に、智穂は卒業論文の発表を終えた。9月末に戻ってからは、喜代田さんが研究発表に向けた追加の実験を手伝ってくれた。

発表の夜に、西村からメールがとどいた。発表完了のお祝いとともに、骨折で入院したことが書かれていた。

智穂は、自分の机の奥に保管してある、母からもらった飴を思い出した。
二日間、考えたあと、国家試験の勉強に入る前に、一度だけ西村のお見舞いに行くことに決めた。国家試験に向けた勉強で旅行できなくなる前に、一度だけ西村と話したかった。

「智穂さんなら、国試の勉強は大丈夫だよ」
と明るく言ってもらえたら、勉強だけの日々を辛くなく過ごせそうな気がした。

見舞いに行くことを決めてから、母から受け取った飴が気になり始めた。
西村への自分の気持ちが本物なら、自分には一度だけのチャンスがある。西村の気持ちの変化を恐れる必要はなくなる。父と母の暮らしを思った。父は母を受け入れ、最後に尋ねられたときにも、母に感謝をした。父と西村の顔が重なった。

母に父が居たように、私にも西村さんが居るかもしれないと考えると、飴を旅行鞄に入れることを止められなくなった。移動中間違って使うことが無いように、ユザワヤの布で作った小袋に入れた。

窓の外では、雪になる直前の気候が風を吹かせていた。

西村には、見舞いに行くことは隠して、病院名と場所をメールで確認した。

東京に行く際に持つ手荷物の鞄の底に小袋と飴をしまった。機内では、何度か飴を入れた小袋に触れた。

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9章


JRの駅から乗ったバスから降りて、西村が入院している病院に着いた。北海道とは違い、11月でも優しい陽光が病院を照らしていた。病室に入る前に、智穂は小袋を鞄から出し、お土産の六花亭のお菓子とともに手に持った。

「母からもらった飴だけどとても貴重で、体の治りをよくするということなので、よかったら舐めませんか。」

というセリフの73回目の練習をした。

病室に入ると、5つのベッドからの笑い声が聞こえ、窓際の西村のベッドのむこうにいる、栗色のショートカットの女性が目に入った。
大きく動く目と明るく話す声は、病室全体を明るくしていた。西村は、若い女性の方を向いていて顔は見えなかった。女性の手は、西村の左手にそえられていた。

こんにちは、

と智穂が声をかけると、強い磁力に逆らうように、西村がこちらを向いた。
おどろいた表情を見て、実験室から見たキツネが去るときのことを思い出した。

智穂は、明るく挨拶をし、突然の訪問を詫びた。その間に鼓動が早まった。西村が女性を紹介しないので、名前を尋ねた。西村が伝えてくれた名前は全く頭に入らなかった。栗色のショートの女性が笑顔で会釈したときに、また鼓動が早まった。

長風呂のあとのように周りの様子が白くなった。

智穂は、急な用事の途中で立ち寄ったという、嘘の事情を早口で話し、六花亭のマルセイバターサンドを西村のベッドの足元に置いた。栗色のショートの女性と同室の男性たちには軽く頭を下げて、病室を出た。西村が何かこちらに向かって何かを話した声に、栗色のショートの女性が声を重ねたのが聞こえた。また、病室の皆が笑ったようだった。

智穂はバスを使わずに駅までの2キロを走った。

列車を待つためにホームのベンチに座ると、涙があふれた。泣いたらのどが乾いた。ホームに自動販売機が無いことで余計にのどが渇いた。いつものように、手にもった飴を口に入れたら喉の渇きが和らいだ。上質な甘みだけでなく、深みを感じさせる不思議な味がした。食道を飴の成分が通るときに首全体から全身に成分が広がることがわかった。ほどなく、やさしい気持ちが体を包んでいるような感覚がどこからともなくやってきた。

列車が近づいてきた時に、不意に思い出した。これは、母がくれた飴だ。しかも、、、、今動揺で飴を飲み込んでしまった。また涙があふれてきたが、今度は、自分の狡さと馬鹿さに呆れた涙だった。すぐに涙は枯れて、むなしい気持ちだけで北海道行の飛行機に乗った。


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10章


智穂は翌日、薬の効果で自分が好きになっていることに気づいた。

夜遅くにアパートに帰り着き、西村からメールを読まずに消したら、疲れて着替えずに寝入ってしまった。髪の乱れを鏡に向かって直していると、自分の眼が実は細くないことに気が付いた。いつも早く鏡から離れるために目を細めて確認していたのだ。それに、母も細い目をするのは、職員と自分に向かって話すときだった。むしろ、智穂の眼元には好きな父親のやさしい雰囲気があった。

鏡から離れたときに、智穂は薬の作用を考えた。きつと薬の作用で自分は自分を好きになり続ける。いずれ、1時間でも2時間でもうっとりと鏡で自分をみるようになる。そんなときには、周りの人間は自分にとっては道具でしかなくなる。あの、鏡好きの先輩たちと同じになるのだ、いや、もっとひどくなる。自分以外は誰も好きになれなくなる。いずれ、あの父親に対しても同じ感情しかもてなくなる。

それからの1週間で薬の作用はゆっくりと進んでいるようだった。

智穂は、自分の記憶に好感を持つようになった。たとえば、頭蓋骨の穴とそれらを抜ける神経は、近い将来自分を助けてくれる。国家試験では、合格をプレゼントしてくれる。それに、次の知識を整理して記憶に入れていく手助けになってくれる。そう考えたら、勉強した記憶が好きになった。周りの人間にもともと興味が薄かったので、より、その傾向は強まった。

自分を好きになっていく自分は認めたくなかったが、この知識の友人たちは認める必要があつた。『自分の中の友達』は国家試験で自分を助けてくれる。

とはいえ、飴の持ち主を愛するようになるという仮説に自信はまだ持っていなかった。自分の脳は、どうやって飴をくれた人物を記憶するのだろうか。そのことを強く記憶していなければ、薬物はその人物を特定して好きにさせることなどできない。どのバランスを変化させるのか? もし、皿においてあって薬を飲んだらどうなるのか? 母は何を確信していたのか? 父に聞けばわかるのだろうか? 尋ねるときには、

「あなたを騙したお母さんの薬の効果を教えて」
とでも言うのだろうか。できない。

その日、初雪が降った。まだ夏の熱量を残した道路は雪を溶かしたが、木々の葉には雪が残った。

国家試験までの間、智穂が好きになっていく自分を、自分の記憶にふり分け続けた。薬や病気の名前も、子供のころに父に連れられて大文字山に出かけた思い出と同じように、自分の一部だ。友達どうしが仲間であるように一つの記憶は他の記憶を連れてきてくれた。『自分の中の友達』として、好きな勉強の記憶は増え続けた。

智穂にとって、国家試験に備える期間は、好きな友達に囲まれた幸せな時期になった。

国家試験当日には、予定通り、たくさんの『自分の中の友達』は、智穂に合格に十分な得点をプレゼントしてくれた。

試験会場からの帰りは、雪が横殴りに降っていたが、ダウンコートの中の狭い空間が自分を守ってくれているかのように、全く寒く無かった。

国家試験が終わった日には、たまっていたメールを読んだ。西村からのメールが26通届いていた。智穂は、どのようなメールでも読める自信が付いていることに気がついた。西村はいずれ遠くに去っていくが、その思い出は自分の一部であることは間違いない。自分が好きになっている自分には、西村のメールを拒否する理由はない。

最初の方のメールには、お見舞いに来てくれたことの礼が述べられていた。5通目になると、智穂の同級生から、国家試験の勉強に打ち込んでいる智穂の様子に対して応援の言葉が書いてあった。10通目からは、智穂と実験をしたときの思い出が加わっていた。20通目には、返事が無くても、智穂にメールを送り続けることが苦痛でないことと、智穂への想いが本物であることに気づいたことが書いてあった。

そして、26通目には、国家試験が終わった翌日に智穂に合うために大学に来るとメールにあった。

もう、どうでも良くなることだが、智穂は西村に会いたいと感じた。自分に残っているこの気持ちだけは大切にしたかった。

「返事が全然書けなくてすみません。明日は研究室で、西村さんをお待ちします。」
と短く返信した。


http://horeame.blogspot.jp/2013/05/10_3.html
に続く

11章


西村とは、卒業研究に取り組んだ実験室で会うことにした。まず、窓を開けて空気を入れ替えてから窓をしめた。冬が終わったばかりの森の空気が実験室に満ちた。

智穂は、実験室で片づけをしている素振りをした。きっと自分は、西村に別れを告げねばならない。そうしなければ、いずれ西村を不幸にする。いつか、自分は西村を、消しゴム程度に見るようになるに違いない。

きっと自分は、使うたびに小さくなって消えていく存在としてしか全ての人間を見ることできなくなる。だから、今、まだヒトを思いやれるうちに別れなければならない。自分だけが好きになった自分は、西村を道具のように近づけてしまうに違いない。だから、西村がもう、自分に近寄らないようにする必用がある。そのことを告げる場所としては、二人で一番努力した実験室が一番の場所と考えた。

西村は、研究室の教授や後輩に挨拶をしてから実験室にやってきた。

見舞いのときにいた女性が役所の同僚で、事務関係に顔が利くため、配慮しなければならないことを話した。正直ほっとした、が、智穂にはどうでもよいことだった。

いずれ、自分は自分しか好きでいられなくなる。今、こうして西村の顔を見て、春の新芽のように、ときめいている気持ちは、霧のようになくなってしまうのだ。だから、西村のためにも、興味の無い表情をしなければならない。

自分の耳にも聞こえてしまっている自分の鼓動を気づかれないように、西村の背筋をつい見てしまうことを気づかれないように、神経を集中した。決して西村の顔を見ないように、必死に顔を背け続けた。

「忙しそうだから、またね」と言って西村は20分で帰った。智穂は興味の無い芝居をやり通したようだった。

智穂は、動揺しないはずだった。

飴の作用で、今、自分は自分だけが好きだから、自分に気持ちを向けて、好きでいてくれる西村は自分の心には入ってこないはずだった。別れには何も感じないはずだった。だから、見送ったはずだった。

ところが、西村が去ってから、西村のやさしい表情がどんどん頭の中で大きくなった。国家試験のために友人になった自分の記憶たちは、「西村さん好きなんだろ、早く走れ、いまなら間に合う」と叫び始めた。

その時、父の言葉を思い出した。

「あの人は、好きでいてくれたから」

もしかすると、

薬が変えるのは、好意に対して応える気持ちと、それを抑える恐れのバランスなのでは、という考えが浮かんだ。父は、母の想いに素直に応えるようになっただけなのかもしれない。薬はその気持に確信を与えただけだ。

智穂は、好意が消える未来を恐れて、これまで誰の好意にも応えられなかった。

薬が働いて、抑え込んだのは、その「好きな相手が好意に応えてくれないことへの恐れ」なのかもしれない。

証拠に、今、自分は、自然に西村さんが好きだ。彼が応えてくれるかは関係ない。なにも、未来が不安じゃない。

仮説はその瞬間に確信になった。

智穂は、走った。

西村が肩を落として大麻駅に向かったと喜代田さんが教えてくれた。大学のキャンパスの中の国道まで下っていくなだらかな芝生は、まだ雪で通れなかったので、狭い階段を駆け下りた。

国道まで出た時にはすでに息が切れていた。線路沿いの道に出た時には、駅舎が見えていた。智穂は、痛みを訴える脚の腱に、「頑張って」、とお願いしながら走り続けた。大麻駅が近づいたときに、300メートルほど後ろから列車が向かってくるのが見えた。

列車はゆっくりとカーブを曲がってきた。

列車は駅ビルの向こうに入って見えなくなった。もうすぐ、速度を落として、ホームに入り、停車するはずだ。

まだ間に合う。血液の拍出量が限界に近づいているのを感じたが、智穂はスピードを落とすことが出来なかった。少し白くなった駅舎が貧血の始まりを示していた。智穂は、Kitacaカードを買ってあったことを思い出した。

駅舎に入ると列車が目の前に見えた。走りながら出したカードで改札を越えた。運転手が自分に気づいて、ドアを閉めない合図をしているのが目に入った。最後の一歩を大きく踏み出すと、背中でドアが閉まった。幸せな気持ちが心臓と肺に働き、貧血を防いでくれた。

智穂は最前部の車両に移動した。西村は、落ち込んだとき、運転席のすぐうしろで、車窓を見ることを思い出した。

西村は、運転席の後ろで、運転手の背中を見ていた。車両の前面には、線路脇の雪の合間の地面と木々の風景が見えた。列車は春に向かって進んでいるようだった。

智穂は、西村の背中を二度つついた。

振り返った彼へは、最高の笑顔をプレゼントできると、今、確信を持てた。



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おしまいです。
この読み物で、少しでも幸せな時間をお届け出来れば幸いです。

作者