2013年5月3日金曜日

7章


母は、9月に入ると、薬の調合を変えるように、医師に強く主張した。全身への転移の結果、脊椎の神経をがんが直接圧迫していることと、前頭部に転移の一部が近づいていることを主治医に訴え、意識を低下させる薬の処方を希望することを伝えた。MRIの検査結果で母の病状が証明されると、医師は処方箋にサインをした。

医師は、意識が低下する前に家族との時間を設けた。
母は、父の手を取っていくつか二人だけ聞こえる声で静かに話した。そのあと智穂の番が来た時には、母の痛みはひどいらしく、力が弱っている手で智穂の手首をつかんで話した。

--------------------
あの薬の詳しい仕組みはわからなかった。でも、副作用はなく、一旦始まった効果は持続する。あなたは、自分の思う方法であの薬をつかいなさい。私は、薬を使った自分をずっと罰して来た。あなたのお父さんに不幸があればすべて私のせい。でも、今あなたのお父さんは、私との人生を幸せと言ってくれた。だから、、、、、、
--------------------

残りは言葉にならなかった。母は自分の予想よりも早く、意識を保つ能力を失った。

母は9月の3週目に息を引き取った。母の薬の選択は最後まで的確で、母が予測した通りに、痛みはなく静かな表情を保ち、最後の夜も静かに眠っていた。 

父は、最後の3日間は、病室にとどまって母の手を握っていた。疲れ果てても愛情にあふれていた。智穂はその後ろで座っていた。

葬儀には、母の姉が来た。智穂が生まれる前に母とは疎遠になり、会うのはこれが初めてだった。伯母は、本葬の直前に現れたため、葬儀の間に話すことはなかった。

葬儀では父が喪主として別れの言葉を告げた。

***
ヒトは皆、ある思いと生きているのだと思います。妻は、何かのつぐないのために生き続けました。そのために、生真面目に薬と向かい合っていました。時に、その生真面目さが度を越しているために、何人もの方にご迷惑をお掛けしたかもしれません。ただ、妻は私だけには違う表情を見せてくれました。その表情は、二人だけの財産として封印させていただきたいと思いますが、今、妻には全ての思いもつぐないも、しっかりとやり終えて、安心するように、伝えたいと思います。
智慧さん静かに安心して眠ってください。私と娘はずっとあなたのそばにいます。
***

智穂に、幼い時の記憶が戻ってきた。母は厳しいだけではなかった。切ないくらい大切なものを扱うように自分を見つめてくれた。最後に話して、言葉が途切れた時の表情も同じだった。「ごめんなさい」と智穂は心の中で繰り返した。何故謝っているかはわからなかった。

葬儀が終わった時、伯母が自分の方を見ていることに気がついた。振り返った智穂を、伯母は10秒間黙って見つめた。

「まだね」

とだけ言って伯母は去った。話しかけようとする親族には何も答えず、黙って歩いて行った。親戚は、「若いころは違ったんだけどね」と言っていた。

http://horeame.blogspot.jp/2013/05/7_3.html
に続く

0 件のコメント:

コメントを投稿