2013年5月3日金曜日

10章


智穂は翌日、薬の効果で自分が好きになっていることに気づいた。

夜遅くにアパートに帰り着き、西村からメールを読まずに消したら、疲れて着替えずに寝入ってしまった。髪の乱れを鏡に向かって直していると、自分の眼が実は細くないことに気が付いた。いつも早く鏡から離れるために目を細めて確認していたのだ。それに、母も細い目をするのは、職員と自分に向かって話すときだった。むしろ、智穂の眼元には好きな父親のやさしい雰囲気があった。

鏡から離れたときに、智穂は薬の作用を考えた。きつと薬の作用で自分は自分を好きになり続ける。いずれ、1時間でも2時間でもうっとりと鏡で自分をみるようになる。そんなときには、周りの人間は自分にとっては道具でしかなくなる。あの、鏡好きの先輩たちと同じになるのだ、いや、もっとひどくなる。自分以外は誰も好きになれなくなる。いずれ、あの父親に対しても同じ感情しかもてなくなる。

それからの1週間で薬の作用はゆっくりと進んでいるようだった。

智穂は、自分の記憶に好感を持つようになった。たとえば、頭蓋骨の穴とそれらを抜ける神経は、近い将来自分を助けてくれる。国家試験では、合格をプレゼントしてくれる。それに、次の知識を整理して記憶に入れていく手助けになってくれる。そう考えたら、勉強した記憶が好きになった。周りの人間にもともと興味が薄かったので、より、その傾向は強まった。

自分を好きになっていく自分は認めたくなかったが、この知識の友人たちは認める必要があつた。『自分の中の友達』は国家試験で自分を助けてくれる。

とはいえ、飴の持ち主を愛するようになるという仮説に自信はまだ持っていなかった。自分の脳は、どうやって飴をくれた人物を記憶するのだろうか。そのことを強く記憶していなければ、薬物はその人物を特定して好きにさせることなどできない。どのバランスを変化させるのか? もし、皿においてあって薬を飲んだらどうなるのか? 母は何を確信していたのか? 父に聞けばわかるのだろうか? 尋ねるときには、

「あなたを騙したお母さんの薬の効果を教えて」
とでも言うのだろうか。できない。

その日、初雪が降った。まだ夏の熱量を残した道路は雪を溶かしたが、木々の葉には雪が残った。

国家試験までの間、智穂が好きになっていく自分を、自分の記憶にふり分け続けた。薬や病気の名前も、子供のころに父に連れられて大文字山に出かけた思い出と同じように、自分の一部だ。友達どうしが仲間であるように一つの記憶は他の記憶を連れてきてくれた。『自分の中の友達』として、好きな勉強の記憶は増え続けた。

智穂にとって、国家試験に備える期間は、好きな友達に囲まれた幸せな時期になった。

国家試験当日には、予定通り、たくさんの『自分の中の友達』は、智穂に合格に十分な得点をプレゼントしてくれた。

試験会場からの帰りは、雪が横殴りに降っていたが、ダウンコートの中の狭い空間が自分を守ってくれているかのように、全く寒く無かった。

国家試験が終わった日には、たまっていたメールを読んだ。西村からのメールが26通届いていた。智穂は、どのようなメールでも読める自信が付いていることに気がついた。西村はいずれ遠くに去っていくが、その思い出は自分の一部であることは間違いない。自分が好きになっている自分には、西村のメールを拒否する理由はない。

最初の方のメールには、お見舞いに来てくれたことの礼が述べられていた。5通目になると、智穂の同級生から、国家試験の勉強に打ち込んでいる智穂の様子に対して応援の言葉が書いてあった。10通目からは、智穂と実験をしたときの思い出が加わっていた。20通目には、返事が無くても、智穂にメールを送り続けることが苦痛でないことと、智穂への想いが本物であることに気づいたことが書いてあった。

そして、26通目には、国家試験が終わった翌日に智穂に合うために大学に来るとメールにあった。

もう、どうでも良くなることだが、智穂は西村に会いたいと感じた。自分に残っているこの気持ちだけは大切にしたかった。

「返事が全然書けなくてすみません。明日は研究室で、西村さんをお待ちします。」
と短く返信した。


http://horeame.blogspot.jp/2013/05/10_3.html
に続く

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