2013年5月3日金曜日

11章


西村とは、卒業研究に取り組んだ実験室で会うことにした。まず、窓を開けて空気を入れ替えてから窓をしめた。冬が終わったばかりの森の空気が実験室に満ちた。

智穂は、実験室で片づけをしている素振りをした。きっと自分は、西村に別れを告げねばならない。そうしなければ、いずれ西村を不幸にする。いつか、自分は西村を、消しゴム程度に見るようになるに違いない。

きっと自分は、使うたびに小さくなって消えていく存在としてしか全ての人間を見ることできなくなる。だから、今、まだヒトを思いやれるうちに別れなければならない。自分だけが好きになった自分は、西村を道具のように近づけてしまうに違いない。だから、西村がもう、自分に近寄らないようにする必用がある。そのことを告げる場所としては、二人で一番努力した実験室が一番の場所と考えた。

西村は、研究室の教授や後輩に挨拶をしてから実験室にやってきた。

見舞いのときにいた女性が役所の同僚で、事務関係に顔が利くため、配慮しなければならないことを話した。正直ほっとした、が、智穂にはどうでもよいことだった。

いずれ、自分は自分しか好きでいられなくなる。今、こうして西村の顔を見て、春の新芽のように、ときめいている気持ちは、霧のようになくなってしまうのだ。だから、西村のためにも、興味の無い表情をしなければならない。

自分の耳にも聞こえてしまっている自分の鼓動を気づかれないように、西村の背筋をつい見てしまうことを気づかれないように、神経を集中した。決して西村の顔を見ないように、必死に顔を背け続けた。

「忙しそうだから、またね」と言って西村は20分で帰った。智穂は興味の無い芝居をやり通したようだった。

智穂は、動揺しないはずだった。

飴の作用で、今、自分は自分だけが好きだから、自分に気持ちを向けて、好きでいてくれる西村は自分の心には入ってこないはずだった。別れには何も感じないはずだった。だから、見送ったはずだった。

ところが、西村が去ってから、西村のやさしい表情がどんどん頭の中で大きくなった。国家試験のために友人になった自分の記憶たちは、「西村さん好きなんだろ、早く走れ、いまなら間に合う」と叫び始めた。

その時、父の言葉を思い出した。

「あの人は、好きでいてくれたから」

もしかすると、

薬が変えるのは、好意に対して応える気持ちと、それを抑える恐れのバランスなのでは、という考えが浮かんだ。父は、母の想いに素直に応えるようになっただけなのかもしれない。薬はその気持に確信を与えただけだ。

智穂は、好意が消える未来を恐れて、これまで誰の好意にも応えられなかった。

薬が働いて、抑え込んだのは、その「好きな相手が好意に応えてくれないことへの恐れ」なのかもしれない。

証拠に、今、自分は、自然に西村さんが好きだ。彼が応えてくれるかは関係ない。なにも、未来が不安じゃない。

仮説はその瞬間に確信になった。

智穂は、走った。

西村が肩を落として大麻駅に向かったと喜代田さんが教えてくれた。大学のキャンパスの中の国道まで下っていくなだらかな芝生は、まだ雪で通れなかったので、狭い階段を駆け下りた。

国道まで出た時にはすでに息が切れていた。線路沿いの道に出た時には、駅舎が見えていた。智穂は、痛みを訴える脚の腱に、「頑張って」、とお願いしながら走り続けた。大麻駅が近づいたときに、300メートルほど後ろから列車が向かってくるのが見えた。

列車はゆっくりとカーブを曲がってきた。

列車は駅ビルの向こうに入って見えなくなった。もうすぐ、速度を落として、ホームに入り、停車するはずだ。

まだ間に合う。血液の拍出量が限界に近づいているのを感じたが、智穂はスピードを落とすことが出来なかった。少し白くなった駅舎が貧血の始まりを示していた。智穂は、Kitacaカードを買ってあったことを思い出した。

駅舎に入ると列車が目の前に見えた。走りながら出したカードで改札を越えた。運転手が自分に気づいて、ドアを閉めない合図をしているのが目に入った。最後の一歩を大きく踏み出すと、背中でドアが閉まった。幸せな気持ちが心臓と肺に働き、貧血を防いでくれた。

智穂は最前部の車両に移動した。西村は、落ち込んだとき、運転席のすぐうしろで、車窓を見ることを思い出した。

西村は、運転席の後ろで、運転手の背中を見ていた。車両の前面には、線路脇の雪の合間の地面と木々の風景が見えた。列車は春に向かって進んでいるようだった。

智穂は、西村の背中を二度つついた。

振り返った彼へは、最高の笑顔をプレゼントできると、今、確信を持てた。



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おしまいです。
この読み物で、少しでも幸せな時間をお届け出来れば幸いです。

作者

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