2013年5月3日金曜日

1章


獣医学部の卒業記念パーティーは新さっぽろのホテルで催される。

「まだ鏡を見てるよ」萩尾智穂は心の中で舌打ちした。

卒業記念パーティーでは女子トイレの鏡がもっとも華やかな顔を見ることになる。自信に満ちた女子学生が大学最後の思い出を作る顔を念入りにチェックする。智穂は、自分の顔にウットリしている人間を見るのが嫌いだ。5年生は卒業記念パーティーのあとの二次会のためにロビーに控えている。二次会に先輩たちを連れて行く前に智穂がトイレに入ってから出るまで、同じ2人が鏡に向かっていた。きっと眉毛の一本一本、髪の末端まで確認しているに違いない。

「私、西村君には細身のスーツが絶対合うからって言ってたんだよね」
「彼神奈川県に入ったと思ったら、最初鎌倉保健所なんだって、ついてるよねー。私も川崎の動物病院だから、これからいろいろあるかも。」
「そうなんだって!!なんかいろいろな意味で今日が勝負よね」

智穂は、手を洗いながら自分がすこし笑っているのに気がついた。西村先輩からの手紙は智穂の鞄の中にある。

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西村先輩と智穂は良いチームだった。智穂が4年の後半のときに研究室内でテーマが決まり、1年間西村を手伝って動物の寿命に関わる遺伝子を探した。智穂は寿命遺伝子という新しい言葉が何か運んでくれるような気がして、ゼミとテーマを決めた。そのテーマの担当が西村だった。西村は、長身で姿勢の良い背筋と目元の涼しげなところが良く一致しており、同姓にも異姓にも好感を持たれた。特に女子学生については、同級生にもファンが居るほどで、本館から離れている研究室には、国家試験の勉強が盛んな12月から2月までの間、6年生の女子学生が試験勉強と称して集まっていた。ただ、智穂は西村の端正な顔立ちには興味が無かった。容姿と魅力では自分の父親にかなう男など居ないと確信している。ただ、未知への探索をするパートナーとして西村は好感が持てた。一緒に読みづらい英語の研究論文を読んで、その向こうにある新発見が、自分たちの実験机の上にあるかもしれないと語ってどのサンプルをもらって何を探しだすか、コーヒーを飲みながら議論しだすと、本当に楽しかった。

智穂の1年間は、講義室と実験室での時間が占めていた。智穂と西村は生物自身が生み出す活性酸素から体を守る遺伝子を探した。西村の研究が終わる10月には、重大なヒントになりそうな遺伝子の断片が見つかった。11月からは、智穂と4年生の喜代田さんで、続きを探していた。

遺伝子は、DNAという物質でできていて、それを調べるためにはDNAの中の一部の領域を2倍にする作業を繰り返す必用があった。人工的に作った短いプライマーと呼ばれるDNAと動物のDNAを一本の小さなチューブに入れて100℃近くと60℃を繰り返すと目的の領域だけを取り出すことができた。プライマーは自由にデザインして注文できるので、理論的にはプライマーさえ正しくデザインできれば、遺伝子の謎を調べることが出来るはずだった。ただ、プライマーは4種類の塩基を20個連らねるため、その組み合わせは1兆通りもある。研究者は、過去の膨大なデータを元に1兆通りの中から、謎を解く20文字を選び出そうとする。西村と智穂は、鳥の長寿の元になる遺伝子に注目してプライマーを探した。うまく見つけられたときには、遺伝子をアガロースという特殊な寒天の上で見ることができた。動物が何億年も進化した秘密が、バンドと呼ばれる長細いオレンジ色の四角として現れるのを期待して、研究者は知恵を絞ってプライマーをデザインする。

智穂は、西村と一緒にバンドを見るのが好きだった。10回中9回は何も見えなかったが、残り一回にはまるでご褒美のように美しいバンドが見えた。智穂は同級生が言う西村の端正な顔には興味が無かったが、一緒にアガロースを見るときの西村の表情は好きだった。実験が成功した時には、小さなお祝いと言って二人でひとつずつ飴を舐めた。飴はもともと智穂の趣味だったが、次第に西村も飴の種類を覚え、札幌の店で買ってくるようになった。10回試してもうまくいかないときには、西村の習慣に合わせた。JRの電車の最前部に乗り、運転手の後ろから風景が動いていくのを見に行った。西村は、鉄道ファンというわけではなかったが、列車からの風景は良く覚えており、出身地の私鉄の終着前のビルの移り変わりを話すのが好きだった。智穂は、JRで大麻駅から札幌駅について、ふたりでついでに行くスターバックスの方が好きだった。9月は最悪で、ずっと実験が上手く行かず、とうとうJR用のKitacaを買ってしまった。

西村と智穂が使った実験室では、窓から大きな森が見えた。森の奥には、いつも小さな変化がある。春には痩せたキツネが窓のすぐ外まで餌を探しに来ることがあった。西村と智穂は息をひそめてキツネの様子を見ていた。イヌ属の敏感な鼻は、生きるために餌のヒントを探していた。草むらの一箇所一箇所をさぐってネズミの痕跡を探している様子を、西村と智穂は、腰をかがめてキツネに気づかれないように眺めた。キツネは窓から1メートルのところまで近づいて探索を続けていた。息を潜めながら、智穂は西村と同じキツネを見ているのが幸せだった。その時間は、西村を呼びに来た6年生の甲高い声で終わった。キツネは瞬間に身構えて、二人と目が合った。その直後にキツネは森の奥に消えたが、智穂には、キツネが智穂を非難するような表情をしたように見えた。智穂には、自分が母を非難するときの表情と似ていると思った。

西村から手紙を見つけたのは、3月12日だった。西村が自分の荷物を片付けた後、実験室の引き出しでそっと入れてあるのを見つけた。短い文章には、感謝の言葉と、夏休みに鎌倉で進行状況を打ち合わせることが提案されていた。智穂は2度読み返したあと、白衣のポケットに手紙をしまった。白衣と対照的に赤くほてった手を後輩に見られないか、気になり、実験室の窓を開けた。まだ雪が残る森では新芽が出ており、早春の香りがした。深呼吸をしたときに胸が震えた。
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智穂は、髪の乱れを確認する最短の時間で鏡の前を離れた。自分の顔にウットリする人間も嫌いだが、母親とそっくりな自分の顔も嫌いだった。人間は顔じゃない。と、短く呼吸をしてロビーにもどった。

http://horeame.blogspot.jp/2013/05/2_3.html
に続く

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